時空の旅

「鹿児島県 鹿児島市」
幕末を疾駆した薩摩藩士の軌跡を辿る旅

(掲載:2021年4月 回帰 第5号)

【鹿児島県鹿児島市】

人口594,130人。鹿児島県中部に位置する中核市。江戸時代は天下第二の雄藩として、薩摩・大隅・日向の三国を治めた島津家の城下町として発展し、以来、南九州一の都市として栄華の歴史を歩んだ。

鹿児島との出会いは2年前の12月。42歳の冬だった。寒い東京を発ち約2時間、タラップを降りた瞬間の肌に触れた穏やかな空気が「遠い地にやってきた」という感情をさらに高ぶらせてくれた。

上着一枚脱いでもちょうど良いぐらいの気温は、心さえも穏やかになる。

空港を後にし、まず初めに訪れたのは西郷南州顕彰館だ。ここは西郷隆盛(以下、南洲翁)の没後100年を記念して建てられた歴史博物館だ。南洲翁の偉業や生涯を克明に紹介するとともに、遺品や西南戦争の資料、ジオラマなどが展示してあるので、西郷ファン、幕末ファンであれば必ず訪れたい場所だろう。

西郷南州顕彰館

西郷隆盛洞窟

隣接する西南墓地には、南洲翁の墓を中心に薩軍兵士2023名の墓(約750基)と、初代県令(知事)など、縁のあった人々の墓や歌碑が建立されている。そして、その丘から望む雄大な桜島は、日々時間と共に表情が様々に変化していく。ただ唯一、今も昔も変わらないのは、活火山と共生する人々の営みと躍動だ。日常的に小規模噴火を繰り返しながら降灰する光景を眺めていると、心の静寂(しじま)を縫うような、柔らかな時間が過ぎていくのを感じる。

幕末を疾駆した薩摩兵士達は、この美しい桜島を仰ぎながら、何を想い何を考えていたのだろうか。

九州最南端のこの街は、この地に親類縁者もなく、遠く離れた東京に住む私にとって未開の地であった。ただ、仕事人とし、また幕末ロマンとして常に頭の片隅にあったのは、新しい時代を切り開いた偉人には鹿児島出身者が多いということだ。

先述の西郷隆盛をはじめ、大久保利通、東郷平八郎、島津斉彬など、錚々たる名前が連なる中で、私が特に心を寄せているのは「五代友厚」だ。

五代友厚は、明治維新後、商都大阪の低迷する経済を見事に立て直し、東洋のマンチェスターと呼ばれるまでに発展させた偉大なる実業家である。では、なぜ鹿児島はこれ程までに偉人を輩出しているのだろうか。

その昔、薩摩藩は江戸幕府に背いたとして、度々貧乏くじを引かされ辛酸をなめ続けた時代があった。傑出した功績を遺した偉人が多い理由として、いわばその反骨精神と、薩摩藩に伝わる当時の郷中教育が背景にあったのではないかと言われている。郷中教育とは、同地域に住む武家の青少年たちが集団を作り、先輩が後輩に武芸の鍛錬を施しながら、武士の精神や生きる知恵、日常の躾を養う藩独自の教育制度である。なるほど、明治維新の原動力は、桜島をはじめとするこの豊かな自然の中で育まれた薩摩精神が牽引したのだと知ると納得だ。

せっかく鹿児島を訪れるなら、明治維新ゆかりの史跡巡りや、こうした歴史背景を学んでみるのも旅の楽しみとしてお進めしたい。

私学校跡

尚古集成館

旅の楽しみと言えば、もうひとつ忘れてはならないのが鹿児島グルメである。

関東の人間には鹿児島の食べ物と言われると、いまひとつピンと来ないのだが、肉であれば薩摩地鶏、薩摩黒豚に薩摩黒牛、魚であればマグロ、ブリ、キビナゴ、肥沃な大地で育った野菜に果物、そして世界に誇る地酒や芋焼酎など、新鮮で滋味豊かな食材が驚く程勢ぞろいする。

歴史に触れた後は、ぜひこの夢のような鹿児島ブランドに舌鼓を打ち、心ゆくまで酔いしれていただきたい。

松本 隆宏(文/山本さくら)

名物「薩摩揚げ」

「きびなご」の刺身